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2022-06-20
長篠の戦い 3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦








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長篠の戦い 3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため、長篠・設楽(ヶ)原の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。

長篠の戦い 開戦に至る経緯

甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。
しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。

武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属[注釈 5]。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。

武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始[12]。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。また、大岡弥四郎(大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。

長篠合戦の政治的な影響

長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。

武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。

天正6年(1578年)には越後において上杉謙信の死後、ともにその養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で家督を巡る御館の乱が起こり、勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切となった。

勝頼は関東諸族との同盟により北条氏を牽制し、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田氏は滅亡した。

長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室とした上、家康所有の名刀「大般若長光」も賜るという名誉を受けた。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続くこととなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。

長篠の戦い 参戦武将

織田・徳川連合軍
設楽原決戦の本隊
織田軍武将
織田信長、織田信忠、北畠信雄、織田掃部、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀(非参戦説有り)、佐久間信盛、水野信元、高木清秀、河尻秀隆、稲葉一鉄、日根野弘就、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、佐々成政、前田利家、塙直政、福富秀勝、野々村正成、丹羽氏次、徳山則秀、西尾吉次、湯浅直宗

徳川軍武将
徳川家康、松平信康、松平信一、松平定勝、松平重勝、松平忠正、石川数正、本多忠勝、本多重次、本多正重、本多信俊、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世・忠佐兄弟、大須賀康高、平岩親吉、内藤信成、内藤家長、渡辺守綱、田中義忠、高力正長、柴田康忠、朝比奈泰勝、成瀬正一、日下部定好

鳶ヶ巣山攻撃隊
織田軍武将
金森長近、佐藤秀方

徳川軍武将
酒井忠次、酒井家次、松平康忠、松平伊忠・家忠親子、松平清宗、松平真乗、松平忠次、松平家忠(東条松平家)、松平家忠(形原松平家)、本多広孝・康重親子、本多忠次、牧野康成、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用、小笠原安次、戸田一西、大沢基胤、設楽貞通(樋田にて待機)

長篠城籠城軍
奥平貞昌、松平景忠
武田軍

設楽原決戦の本隊
武田勝頼、武田信廉、武田信豊・望月信永兄弟、一条信龍、武田信光、穴山信君、小山田信茂、山県昌景、山県昌次、内藤昌秀、馬場信春、土屋昌続・昌恒兄弟、土屋貞綱、真田信綱・昌輝・昌幸(武藤喜兵衛)兄弟、鎌原重澄、原昌胤、跡部勝資、長坂光堅、小幡憲重(この戦いで討死したという説もあり)・信貞親子、甘利信康、横田康景・原盛胤兄弟、安中景繁、米倉重継、小笠原信嶺、小幡昌盛、初鹿野昌久、岡部正綱、朝比奈信置、大井貞清、室賀信俊、恵光寺快川、岩手胤秀、屋代正長、根津月直、堀無手右衛門、柳沢信俊、多田昌治と子の新蔵昌勝(多田三八郎の子孫)、油川信次

長篠城監視部隊
鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸)
鳶ヶ巣砦
河窪信実、小宮山信近
姥ヶ懐砦
三枝昌貞・守義・守光兄弟
君ヶ伏床砦
和田業繁
中山砦
五味高重、飯尾助友・祐国兄弟、名和無理之助
久間山砦
和気善兵衛、倉賀野秀景、原胤成
有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
高坂昌澄、小山田昌成、雨宮家次、山本勘蔵信供

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